「何かを決めるときに、なかなか心が決まらないときは、今決める必要はない」というようなことがよく言われます。
ごもっともです、ただ。でも…さ、という気持ちのときも、あるでしょう。
例えば私、人生の拠点について、もどかしさがあります。
京都で生まれ、大阪で育ち、世界を放浪し、オーストラリアに移住しました。
世界一周をした後に、元相方と辿り着いたケアンズで私の人生は、一旦落ち着いたように思われました。でも何年かに渡る事実婚の末、その関係はまるで熟した果実が自然に枝を離れ、地面に落ちるように終幕を迎えたのです。
そのすったもんだ、色々とあった関係のおかげ(⁉)で、オーストラリアという選択肢がまたひとつ増えました。
でも蓋を開けてみたら、約10年ほどした後の私とオーストラリアとの関係は、また何の後腐れも引き留めるものもなく、さまざまな事情と私の好奇心のもと、生まれ故郷であり母親の故郷でもある京都に惹かれ、帰国しました。
実質大阪での仕事もあるので、大阪寄りの京都との間、これが今の私の拠点です。
拠点が決まる人を、正直羨ましく思ってしまいました。
結婚して求められてその地へ行く人は、例え本人の意図と沿っても沿わなくても、その縁のようなものの存在が見える気がします。
「日本語しかできひんからなぁ。」と笑う自営業の父には、それはそれで他に選択肢がない圧倒的な安定感があります。
最初は自分の好奇心から訪れた場所で誰かと出会い、また仕事での縁が繋がり留まることになるというよくある話も、私には起きなかった。
流されるままに今またスタート地に、戻ってきてしまった。
そっか、私は根無し草、なんだな。
自分が決めれば、そこが拠点になる。
という全うな答えは置いておいて。苦笑。
決める、要素が見当たらない場合は、どうする。ひとつの場所に決めてしまう焦り、のようなものさえ感じる。その正体はなんなの…、誰か教えてください。苦笑。
でも決めたい、私も普通に拠点を持ちたい、と。
一度拠点らしき場所を持ったときに、その地に根を張るというリアリティを感じて、その土地のいたるところに自分という存在が染み込んでいく感覚を体験しました。
それは、目の前に何かが開けていく素晴らしい経験だった。そしてまた、それは美しい街でした。
ただその時代も、時期がきて過去になり、風化してしまった。
そもそもこんなもやっと感を抱えたままでは、物事はすっと流れていかないものです。苦笑。
そんな想いを先日、ある人にぶつけてみました。
最近知り合ったばかりの人だし、友人でもないかもしれない。
でもその人も同じく海外経験があり、世界を見た後に「でも自分はあっちじゃないな、と思って。」と潔く日本でその後を過ごすことを決めている。さらりと。
で、その人がさらっとタイトルの言葉を放ったのです。
「拠点をどこかに決めないことを、決めてみる。っていうのは、どう?」
お、今いいこと言ったな。笑。それ、いいやん。と気持ちが少し上向いた瞬間でした。
というか今、状況的に、そうなっているし。
「決めると今しなあかんこととかも、見えるし。」とその人は続ける。
いやもうそれ、100%異議なし!いつもそう思い、実行してきた、し!
でも人から言ってもらうのって、いいなと心から思いました。
そのために「今しなあかんこと?」。
それは、
もちろん、
フリーランスをもっと極める♡
結局、そこへ辿り着くんですよ。苦笑。
そもそもフリーライターになりたかったのも、世界中どこでも生活ができるからだった、と。
そして場所や一緒にいる相手が変わろうと、今のところ唯一変わらない私の情熱が、「書くこと」に他ならないから、です。これを続けていれば私らしくいられる、そういう軸を持っていることは幸せなんだ、という自覚はありますよ。
後はねー、ここ数年少しずつですがとにかく身辺を断捨離しています。するほどに心がすっと軽く、整う感じがするのでせずにはいられないのです。
最近はね、もやっとする度に、深呼吸。
自分の中心に戻るように、しています。周りを見ない、人と比べない、自分の中心部の居心地を感じること。
きっとこれ、さまざまな分岐点などでも応用できますね。
「決めないことを、決める」
これ、本当にできたら強いと思います。
決めたという満足感も味わえるし、その次はどう動く?も見えてきます。
こんな風に、必要なメッセージはどこから/誰から届くか、わかりませんねー。だからこそ、人生面白いのですが!
そんな風に、「今ここ」の自分を深め満喫しているうち、時期が来たら次の場所(ステージ)へ辿り着いているんだろう、と思えるのです。
そして、今のもがきさえもきっと3年、5年後の私から振り返ったときに、「あの時のもやもや期があったからここへ辿り着いたんだよねー。全て必然!ここ最高♡」などと笑っているような気がします、きっとね。